部屋の襖を閉めた瞬間、私はようやく一人になれたことに安堵のため息をついた。
奥の寝室には既に布団が敷かれていて、すぐに休めるようになっている。布団は私がこれまで使っていたものと違って、ふかふかと厚みがあって柔らかそう。
床の間に飾られた花の甘い香りが疲れを癒してくれる気がした。箪笥や化粧台に触れてみると、温かい木のぬくもりが伝わってくる。 借金取りに追われていた数日前の生活とのあまりの落差に、現実感が湧かない。「本当に、これが私の部屋なの……」
呟きながら、私は持参した小さな竹籠の中から、形見の一つである手鏡を取り出した。銀の縁に繊細な菊の花の彫刻が施された小さな鏡は、曾祖母のちよが遺してくれた大切な宝物だった。
鏡面に映る自分の顔を見つめながら、私は今日一日の出来事を振り返った。
朝霞理玖という人は、確かに紳士的で礼儀正しい。容姿端麗で、言葉遣いも丁寧。けれど、どこか近寄りがたい雰囲気がある。まるで美しい氷の彫刻を見ているような、触れれば凍えてしまいそうな冷たさを感じるのだ。
「あの方は、どうして私を選んだのかしら」
私は鏡に映る自分の顔を改めて見詰めた。特別美しいわけでもない。家柄も今では没落している。理玖ほどの男性であれば、もっと相応しい相手がいくらでもいるはずなのに。
夕食の席で交わした会話を思い出す。契約結婚の条件を淡々と説明する理玖の声には、感情の起伏が一切感じられなかった。まるで商談でもしているかのような、事務的な口調。曾祖母との約束だと言っていたけれど、曾祖母が亡くなって長い今、そんな約束など反故にされてもおかしくもない。
「朝霞様の正体や仕事の詳細を詮索しない、か……」
その時の理玖の表情が妙に印象に残っている。一瞬、目の奥に何か暗いものが宿ったような気がしたのだ。正体、という言葉の使い方も気になった。普通なら「私生活」や「仕事の内容」と言うところではないだろうか。
私は鏡を大切にしまいながら、曾祖母に対する感傷に浸った。
「曾祖母様、私は正しい選択をしたのでしょうか」
小さな声で問いかける。曾祖母の顔さえも記憶に残っていないけれど、後に残る私のことまで考えていてくれたことを、嬉しく思う。
『鈴凪はいつか、大きなお屋敷のお嬢様になるのよ。きっと素敵な殿方と出会って、幸せになるの』
昔、母がそんな風に言ってくれたことがある。まさかこんな形でその言葉が現実になるとは思わなかったけれど。
私は窓辺に歩み寄り、カーテンを少し開けて庭を見下ろした。月明かりに照らされた日本庭園は幻想的で美しいが、どこか不思議な雰囲気を醸し出している。季節外れの彼岸花が咲いているのも気になったが、それ以上に奇妙だったのは――。
「あら……?」
庭に、薄っすらと青白い光がゆらめいているのが見えた。狐火というものがあると聞いたことがあるが、まさかそんなものが現実に……?
目を凝らして見ようとすると、光はふっと消えてしまった。見間違いだったのかもしれないし、提灯の灯りだったのかもしれない。きっと私は疲れているのだろう。布団に横になると、柔らかな感触に体が沈み込んだ。こんな立派な寝具で眠るのは生まれて初めてだった。
部屋の明かりを消して目を閉じると、静寂に包まれた。あまりにも静かで、かえって落ち着かない。実家でも長屋でも、隣家の生活音や街の雑音が常に聞こえていたのに、この屋敷はまるで外界から切り離されたかのように静寂だった。
そんな中、かすかに鈴の音のような響きが聞こえてきた。
チリン……チリン……。
美しく澄んだ音色が、どこからともなく響いている。風鈴だろうか?
でも今は風の音はしない。私は耳を澄ませた。音は確かに聞こえるのに、その発生源が分からない。まるで夢の中で聞こえる音楽のように、現実味がなかった。
「不思議な音……」
呟いた時、廊下から足音が聞こえてきた。パタパタと、誰かが廊下を歩いているようだった。使用人の方だろうか。でも、昼間見た使用人たちは皆、足音を立てずに歩いていたような気がするけれど……。
足音は私の部屋の前を通り過ぎ、やがて遠ざかっていった。そして再び、深い静寂が訪れた。
私は枕に頭を預けながら、今日感じた違和感について考えを巡らせた。理玖の冷たい美しさ、使用人たちの奇妙な態度、そしてこの屋敷の不思議な雰囲気。全てが現実離れしていて、まるで物語の中に迷い込んでしまったようだった。
「一年間……この奇妙な生活が一年も続くのね」
そう呟いてから、私は自分の言葉に驚いた。奇妙な生活、と自然に口にしていたのだ。確かに、豪華で恵まれた環境なのに、どこか「普通ではない」と感じている自分がいる。
でも、もう後戻りはできない。借金は理玖が肩代わりしてくれることになっている。この契約を破棄すれば、再び借金地獄に逆戻りだ。
「頑張らなくては……」
私は決意を新たにした。一年間、朝霞理玖の妻として振舞う。それがどんなに奇妙で不安な生活であっても、耐えてみせる。
そう心に決めると、不思議と気持ちが落ち着いてきた。疲労も相まって、まぶたが重くなってくる。眠りにつく直前、私はもう一度、枕元に置いた曾祖母の鏡を見た。月光がかすかに鏡面を照らしている。
その瞬間、鏡に映った自分の顔が、一瞬だけ別人のように見えた気がした。もう少し大人びた、美しい女性の顔—まるで肖像画で見たような、気品のある美貌。
思わず目を擦って見直すと、そこにはいつもの自分の顔があるだけだった。
「きっと疲れているのね……」
私は小さく苦笑して、ゆっくりと目を閉じた。
遠くから聞こえる鈴の音に包まれながら、新しい生活への不安と期待を胸に、深い眠りに落ちていった。明日からは、朝霞理玖の妻として、この不思議な屋敷での日々が本格的に始まるのだから。
慎吾が帰った後、私と理玖は中庭に出た。 夕暮れ時の庭では、桜と梅と椿の花が時季を違えながら同時に咲き、月見草が星明りに輝いている。この不思議な庭の光景も、今では二人にとって日常の一部だった。「今日も一日、お疲れ様でした」 私が理玖に茶を淹れながら言うと、理玖は愛しそうに彼女を見つめた。「鈴凪こそ。毎日たくさんの人の相談に乗って、疲れただろう」「いいえ、全然。皆さんの笑顔を見ていると、私も元気になります」 私は湯呑みを理玖に手渡すと、自分も隣に腰を下ろした。理玖の肩に頭を預けると、理玖は自然に腕を回す。「理玖様」「何だ?」「私、幸せです」 私の素直な気持ちを伝えると、理玖は肩に回した手に少し力を込めた。「私もだ。鈴凪と出会えて、本当に良かった」 二人はしばらく、庭に散る花びらを眺めながら静かに寄り添っていた。「あの……理玖様」 私は言い淀んで俯いてしまう。顔が熱くなるのは恥ずかしさを隠し切れないからだった。そんな私を、理玖は不思議そうな表情で覗き込む。「どうした? 何か言いにくいことでも?」「その……実は……」 私は頬を赤らめながら、自分のお腹にそっと手を当てた。理玖はその仕草を見て、はっと息を呑んだ。「まさか……」「はい。先日、華さんと一緒に医師の縁火様の
それから幾月かが過ぎた。 椿京の街並みは、以前と変わらぬ風情を保ちながらも、どこか空気が軽やかになったように感じられる。和装に帽子を合わせた紳士が狐の面を持つ商人と談笑し、洋傘を差した婦人が猫又の小間物屋で品定めをする光景が、もはや珍しいものではなくなっていた。 朝霞邸の門前には、今日も数人の人影が列を作っている。「順番にお願いいたします。奥様は必ずお会いくださいますから」 華が穏やかな声で案内すると、妖と人とが入り混じった来訪者たちがほっと安堵の表情を浮かべた。ある者は隣人との諍いを抱え、ある者は商売上の取り決めで困り、またある者は恋の悩みを打ち明けたいと願っている。 かつて朝霞家の女中頭として威厳を保っていた華の表情は、今ではすっかり柔らかく、慈愛に満ちていた。「華さん、今日はどのような方々が?」 奥座敷から現れた鈴凪が、来訪者に会釈をしながら華に尋ねる。椿の花を散らした淡い紫の着物に、髪は簡素な髪結いに銀の簪を一本。装いは質素だが、その立ち姿には凛とした品格が宿っていた。「北区の魚屋の旦那さんが、河童の職人さんとの契約で悩んでおられます。それから、向島の娘さんが、狐火の青年との縁談について……」「そうですか。では、順番にお話を伺いましょう」 鈴凪は微笑んで頷くと、来訪者たちに向かって丁寧にお辞儀をした。「皆様、今日はお忙しい中をありがとうございます。私で力になれることがあれば、何でもお聞かせください」 その声音は落ち着いていて、聞く者の心を自然と和ませる。かつて時雨家の没落した娘として肩身の狭い思いをしていた少女の面影は、もうそこにはない。代わりにあるのは、多くの人と妖に頼られ、愛される女性の佳い姿だった。「所長さんは、本当にお若いのに偉いねぇ」
月光が中庭の花々を銀色に染める深夜、朝霞邸は静寂に包まれていた。昼の喧騒も、夕刻の使用人たちの慌ただしさも、今はすべてが遠い記憶のように感じられる。 私は白い小袖に身を包み、髪に簪を挿して中庭の中央に立っていた。 月明かりが彼女の頬を照らし、銀の鈴が胸元で小さく揺れている。心臓の鼓動が早鐘のように響いているのがわかったが、それは恐れからではなかった。これから始まることへの、深い期待と愛しさからだった。「鈴凪」 低い声が闇の中から響いた。振り返ると、理玖が歩いてくる。今宵の彼は、いつもの人間の姿ではなかった。 月光の下で、理玖の背後には九つの金色の尾が優雅に揺らめいていた。その尾は炎のように、水のように、時には風のように形を変えながら、彼の周りを舞い踊っている。瞳は琥珀色に輝き、頬には薄く妖の紋様が浮かんでいる。それは恐ろしいものではなく、神々しささえ感じさせる美しさだった。「理玖様……」 私は息を呑んだ。これが理玖の真の姿。九尾の妖として生まれ、長い年月を生きてきた彼の、隠すことのない本当の姿。「驚いたか?」 理玖は立ち止まり、わずかに眉を寄せる。「やはり、恐ろしいだろう。こんな日に、あなたにこの姿を見せるべきではなかった」「いいえ」 私は首を振り、一歩前に出た。「以前と同じ……美しい、と思いました」 理玖の瞳が見開かれる。「美しい……?」「はい。理玖様のすべてが、こんなにも美しいなんて」 私の声は震えていたが、それは恐怖からではなく感動からだった。
夕影山は、まるで世界の終わりのような静寂に包まれていた。 理玖と鈴凪は、山頂近くの焼け焦げた大地に立っている。かつて迦具土烈火が暴れ回った場所は、今も黒い灰に覆われ、植物一つ生えていない。「本当に、ここにいらっしゃるのですか」 私は理玖の手を握りながら、不安を抑えて問いかけた。「ああ。烈火の気配はまだ残っている。完全に消滅したわけではない。百五十年前と同じように封印をしなければ……」 二人が歩を進めると、空気が次第に重くなっていく。そして、大きな岩の陰から、弱々しい声が聞こえてきた。「理玖……来たか」 朧月会の本部で見た、威厳ある姿はもうそこにはなかった。迦具土烈火は、人間の老人のような姿で、岩にもたれかかっている。体の各所から薄い炎が立ち昇っているが、それさえも今にも消えそうなほど弱々しい。「烈火」 理玖が迦具土に静かに近づいた。「おまえとの戦いに決着をつけに来た」「決着?」 烈火は嘲笑した。「見ろ、この様を。私はもう、戦う力さえ残っていない」 私は迦具土を見つめながら、胸の奥に複雑な感情が湧き上がるのを感じていた。恐怖、憐れみ、そして……理解しがたい親近感。「迦具土烈火様……」 私も理玖の横に立った。「私は朝霞鈴凪と申します」 迦具土は私を見上げると、瞳の奥を覗き込むように見つめてきた。
朧月会本部の会議室に、重苦しい空気が漂っていた。長い楕円形のテーブルを囲んで座る幹部たちの表情は、それぞれに複雑な感情を映している。 議長席に座る慎吾は、手元の書類に目を落としながら、深く息を吸った。この日のために、彼は三日三晩考え抜いてきた。「諸君、本日は重要な議題について話し合いたい」 慎吾の声が、静寂を破った。「九尾・朝霞理玖との戦いが終結し、我々、朧月会の使命について、根本から見直す時が来たと思う」 会議室のあちこちで、ざわめきが起こる。最前列に座る高師小夜が、鋭い視線を慎吾に向けた。「慎吾、まさか敗北宣言をするつもりではないでしょうね」「小夜さん、これは敗北ではない」 慎吾は落ち着いて答えた。「我々は、戦うべき相手を間違えていたのではないかと言っているのです」「何を言っているの!」 復讐することを諦めたとはいえ、相変わらず小夜の声は、どこまでも冷たい。「妖は人類の敵よ。それは変わらない事実でしょうが! 人を騙して弄び、」「本当にそうでしょうか」 慎吾は立ち上がり、窓辺に歩いた。外では、椿京の街並みが夕日に染まっている。「僕は先日、朝霞邸を訪れました。そこで見たのは、恐ろしい化け物ではなく、一人の女性を心から愛する男の姿でした」「惑わされているのよ! 妖の幻術に騙されているだけじゃない」 小夜が苛立ちを隠さずに言う。これまでずっと、妖を憎み続けた小夜にとっては、全ての妖が同じに見えるのだろう。長い間、抱えていた憎しみを急に忘れることなどできないと、慎吾にもわかる。「では、鈴凪さんも幻術にかかっているとでも?」 慎吾は振り返り、会議室の全員を見回した。誰もが慎吾の言葉に耳を傾けていながらも、小夜の強い口調に身をひそめている。「僕は彼女を以前から知っています。彼女がどれほど聡明で、意志の強い女性かも知っている。その彼女が、自分の意志で朝霞を選んだのです」 年配の幹部の一人、橋本が口を開いた。「真壁君の言いたいことは分からんでもない。だが、それは一例に過ぎないのではないか。すべての妖が朝霞のような存在だとは限らん」「その通りです、橋本さん」 慎吾は頷いた。「だからこそ、我々は妖を一律に敵視するのではなく、個々の存在として向き合うべきなのです」 小夜が立ち上がった。「あなたは朧月会を解散させるつもりなの? 我
朝霞邸の玄関に、聞き慣れない足音が響いたのは、契約解除の儀式から二日が過ぎた夕刻のことだった。「真壁慎吾様がお見えです」 華の知らせに、私は胸の奥で小さく息を呑んだ。理玖と真の夫婦になると決めてから、いつかこの時が来ることは分かっていた。それでも、実際に慎吾と向き合うとなると、心は複雑に揺れる。「お通ししてください」 私は襟を正し、座敷へと向かった。障子の向こうから差し込む夕日が、畳に長い影を落としている。やがて襖が開き、慎吾が姿を現した。 朧月会の制服ではなく、質素な紬の着物に袴。その表情は、かつてのような激しい敵意ではなく、深い疲労と諦めに似た静けさを湛えていた。「鈴凪さん、お久しぶりです」 慎吾は畳に正座すると、まっすぐに私を見つめた。「お久しぶりです、慎吾さん」 私も正座し、丁寧に頭を下げる。二人の間に流れる空気は、以前とはまったく違っていた。敵対でもなく、昔の親しさでもない。ただ、互いを理解しようとする静かな意志だけがそこにあった。「君は……元気そうですね」 慎吾の声は、どこか安堵を含んでいる。「おかげさまで。慎吾さんは……ずいぶんとお疲れのようですが」「ええ」 慎吾は苦い笑みを浮かべた。「朧月会の後始末に追われています。今日は、その件で来たのです」 私は静かに頷く。理玖が迦具土を退けた後、朧月会内部では激しい議論が続いていることを、華から聞いていた。「まずは…&helli