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第6話 夜、一人の時間

Auteur: 釜瑪秋摩
last update Dernière mise à jour: 2025-08-01 18:00:02

 部屋の襖を閉めた瞬間、私はようやく一人になれたことに安堵のため息をついた。

 奥の寝室には既に布団が敷かれていて、すぐに休めるようになっている。布団は私がこれまで使っていたものと違って、ふかふかと厚みがあって柔らかそう。

 床の間に飾られた花の甘い香りが疲れを癒してくれる気がした。箪笥や化粧台に触れてみると、温かい木のぬくもりが伝わってくる。

 借金取りに追われていた数日前の生活とのあまりの落差に、現実感が湧かない。

「本当に、これが私の部屋なの……」

 呟きながら、私は持参した小さな竹籠の中から、形見の一つである手鏡を取り出した。銀の縁に繊細な菊の花の彫刻が施された小さな鏡は、曾祖母のちよが遺してくれた大切な宝物だった。

 鏡面に映る自分の顔を見つめながら、私は今日一日の出来事を振り返った。

 朝霞理玖という人は、確かに紳士的で礼儀正しい。容姿端麗で、言葉遣いも丁寧。けれど、どこか近寄りがたい雰囲気がある。まるで美しい氷の彫刻を見ているような、触れれば凍えてしまいそうな冷たさを感じるのだ。

「あの方は、どうして私を選んだのかしら」

 私は鏡に映る自分の顔を改めて見詰めた。特別美しいわけでもない。家柄も今では没落している。理玖ほどの男性であれば、もっと相応しい相手がいくらでもいるはずなのに。

 夕食の席で交わした会話を思い出す。契約結婚の条件を淡々と説明する理玖の声には、感情の起伏が一切感じられなかった。まるで商談でもしているかのような、事務的な口調。曾祖母との約束だと言っていたけれど、曾祖母が亡くなって長い今、そんな約束など反故にされてもおかしくもない。

「朝霞様の正体や仕事の詳細を詮索しない、か……」

 その時の理玖の表情が妙に印象に残っている。一瞬、目の奥に何か暗いものが宿ったような気がしたのだ。正体、という言葉の使い方も気になった。普通なら「私生活」や「仕事の内容」と言うところではないだろうか。

 私は鏡を大切にしまいながら、曾祖母に対する感傷に浸った。

「曾祖母様、私は正しい選択をしたのでしょうか」

 小さな声で問いかける。曾祖母の顔さえも記憶に残っていないけれど、後に残る私のことまで考えていてくれたことを、嬉しく思う。

『鈴凪はいつか、大きなお屋敷のお嬢様になるのよ。きっと素敵な殿方と出会って、幸せになるの』

 昔、母がそんな風に言ってくれたことがある。まさかこんな形でその言葉が現実になるとは思わなかったけれど。

 私は窓辺に歩み寄り、カーテンを少し開けて庭を見下ろした。月明かりに照らされた日本庭園は幻想的で美しいが、どこか不思議な雰囲気を醸し出している。季節外れの彼岸花が咲いているのも気になったが、それ以上に奇妙だったのは――。

「あら……?」

 庭に、薄っすらと青白い光がゆらめいているのが見えた。狐火というものがあると聞いたことがあるが、まさかそんなものが現実に……?

 目を凝らして見ようとすると、光はふっと消えてしまった。見間違いだったのかもしれないし、提灯の灯りだったのかもしれない。きっと私は疲れているのだろう。

 布団に横になると、柔らかな感触に体が沈み込んだ。こんな立派な寝具で眠るのは生まれて初めてだった。

 部屋の明かりを消して目を閉じると、静寂に包まれた。あまりにも静かで、かえって落ち着かない。実家でも長屋でも、隣家の生活音や街の雑音が常に聞こえていたのに、この屋敷はまるで外界から切り離されたかのように静寂だった。

 そんな中、かすかに鈴の音のような響きが聞こえてきた。

 チリン……チリン……。

 美しく澄んだ音色が、どこからともなく響いている。風鈴だろうか?

 でも今は風の音はしない。

 私は耳を澄ませた。音は確かに聞こえるのに、その発生源が分からない。まるで夢の中で聞こえる音楽のように、現実味がなかった。

「不思議な音……」

 呟いた時、廊下から足音が聞こえてきた。パタパタと、誰かが廊下を歩いているようだった。使用人の方だろうか。でも、昼間見た使用人たちは皆、足音を立てずに歩いていたような気がするけれど……。

 足音は私の部屋の前を通り過ぎ、やがて遠ざかっていった。そして再び、深い静寂が訪れた。

 私は枕に頭を預けながら、今日感じた違和感について考えを巡らせた。理玖の冷たい美しさ、使用人たちの奇妙な態度、そしてこの屋敷の不思議な雰囲気。全てが現実離れしていて、まるで物語の中に迷い込んでしまったようだった。

「一年間……この奇妙な生活が一年も続くのね」

 そう呟いてから、私は自分の言葉に驚いた。奇妙な生活、と自然に口にしていたのだ。確かに、豪華で恵まれた環境なのに、どこか「普通ではない」と感じている自分がいる。

 でも、もう後戻りはできない。借金は理玖が肩代わりしてくれることになっている。この契約を破棄すれば、再び借金地獄に逆戻りだ。

「頑張らなくては……」

 私は決意を新たにした。一年間、朝霞理玖の妻として振舞う。それがどんなに奇妙で不安な生活であっても、耐えてみせる。

 そう心に決めると、不思議と気持ちが落ち着いてきた。疲労も相まって、まぶたが重くなってくる。

 眠りにつく直前、私はもう一度、枕元に置いた曾祖母の鏡を見た。月光がかすかに鏡面を照らしている。

 その瞬間、鏡に映った自分の顔が、一瞬だけ別人のように見えた気がした。もう少し大人びた、美しい女性の顔—まるで肖像画で見たような、気品のある美貌。

 思わず目を擦って見直すと、そこにはいつもの自分の顔があるだけだった。

「きっと疲れているのね……」

 私は小さく苦笑して、ゆっくりと目を閉じた。

 遠くから聞こえる鈴の音に包まれながら、新しい生活への不安と期待を胸に、深い眠りに落ちていった。明日からは、朝霞理玖の妻として、この不思議な屋敷での日々が本格的に始まるのだから。

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